上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

今日も生きた・

寝る前、明日の朝、目が覚めるだろうか、と思いながら寝る。
朝、目覚めて、あッ生きてるって思う。
寝ている間にも心臓他の体内の臓器が動き、私を生かしてくれている。

おはようって家族にすぐに挨拶できることが嬉しい。
お休みって家族に言えることが嬉しい。
愛する妻を軽く抱擁し、生きていることを再確認し、一日が始まる。

今まで、何の変化も無いと思っていたのに、花が咲き、木々は紅葉し、風が冷たくなる。
海があればもっと変化を感じられたかもしれない。

久しぶりに『信長公記』を手にした。これを当時の人はどのように感じたのだろうか?
信長の肝心な部分が欠落していると思ったのではないだろうか?

太田牛一の見た信長の姿がある。
豊臣秀吉の見た信長の姿がある。
徳川家康の見た信長の姿がある。
それぞれ違っているはずだ。

池田家の写本が今日に伝わっている。
しかし、別の写本もある。
太田牛一はサービス精神旺盛な人だったらしく、献上する相手に応じて内容をアレンジしたらしい。

彼の描く信長は、どこか違和感がある。
しかし、『信長公記』以外の史料が乏しい以上、彼の目を通した信長しかわからない。
あとは想像でしかない。
『炎の人 信長』の熱さ、『国盗り物語』の信長の冷たさ、などは、著者の筆力が生み出したものだ。だが、史料ではない。

『公記』から人間・信長は中々かんじられない。
私の読み方は、かなり片寄っている。
しかし、私なりの信長は結論付けたい。

時間はかかるが、また再スタートします。
今できること、したいことはそこにある。

閑話休題

あとどれだけ生きられるんだろう?
入院中の思念はそこに集中しました。
死んだらどうなるとか、家族はどうなるとか、眠れない夜が痛みと共に続きました。

ある種の諦めもあり、「生きるだけ生きたら死ぬさ」って思うと気が楽になりました。
入院中も歴史関係の本ばかり手にとってしまうんですよね。
家内にあきれられ、娘にも「いい加減にしたら」って苦笑いされる始末。
さすがに原稿を書く気にはなれませんでしたが、習慣というのは中々変わらないものです。

美しい看護士さんにも「ほどほどにしてくださいね」とたしなめられながら、隆慶一郎を読み、ヒルティ励まされ、
家族の思いやりに支えられて、退院できました。

入院中、不思議と宗教心は湧いてきませんでした。やはり、家族という心の支えがあるからなんでしょう。

退院して、全国歴史研究会の会員申込をしました。
自分にできることを先延ばしにせず、今、することに心かけようと思います。

更新はゆっくりになりますが、今後もよろしくお願い致します。

おはようございます。

体調が悪く、突然、入院してしまい、更新が途絶えてしまいました。
この間に訪問してくださった方に感謝し、コメントの返信ができなかったことをお詫びいたします。
先月下旬に退院し、何とか回復しました。
戦線復帰します。

アジール

 アジールは、ドイツ語で「不可侵な領域、平和領域」を意味する単語である。特定の「聖なる空間」に入り込むと、それ以前の人間関係や様々な負担から自由になって、不可侵な存在になると考えられ、「社会的にそれが承認」される。
 こうした現象は人類史のある段階において社会慣習として広く一般的に見られる。そしてそれは、社会と法が整備され、世俗的国家が成立する中で、否定され、廃止されていく傾向にある。日本史においては、それは戦国時代から統一権力の形成される時期にあたる。  以上『日本史大事典』より引用。

 【道々の輩】【公界の者】ら漂泊の自由民たちが存在した。職人・芸能民ら様々な職業に従事した特殊集団は、天皇・神仏に帰属することで全国を自由に放浪する特権を持っていた。彼らは、世俗の人間関係とは【無縁】の立場をとり、「公界」と称しつつも公権力を排した不可侵の場を持っていた。

 一向一揆は単なる宗教上の戦いではない。武士による天下統一、すなわち「統制」に対し【自由】を守る為の戦いという側面もある。
「諸国の百姓、みな、主をもたじもたじとするもの、多くあり」
彼らは、国主に対し、逃散という手段で抵抗し、権力不入の地といわれた【公界】や【寺内】に集まったのである。堺の町、桑名の港が公界に相当し、摂津富田、長島は「寺内」に相当する。ここでは、【諸役免許】が保証されていたのである。

 【天下布武】を目指す信長にとって、彼らの存在は許し難いものであった。

 最初の長島攻めは元亀二年(1571年)である。
 この時、織田家中から一揆に身を投じるものが多く出たという。
 駒野城主高木彦左衛門尉貞久の息子兵次郎、氏家卜全家臣柴原勘次郎が記録に残っている。
 そして、この戦いは五日間で、織田方が惨敗。柴田勝家が負傷、氏家卜全は戦死している。
 
 次が天正元年だが、ここでも、鉄砲隊の前に織田軍は完敗しているのだ。

 この二度の敗戦から、信長は彼らの力を知り、このたびは接近戦を採らず、海上封鎖、鉄砲による攻撃、干殺し作戦を採った。それは、信長が彼らを恐れたことの証しでもある。
 
 三ヶ月に渡る籠城の末、長島城は降伏。
 信長は一旦それを許し、城から出たところを鉄砲などで皆殺しにした。他の砦に、一揆衆を追い込み、完全に包囲し、焼き殺した。その数二万人という大虐殺である。
 女子供にも容赦しなかった。
 女は子を産み、子は大人になる。
 【彼ら】の血脈を断つために信長は悪鬼羅刹となった。

 【戦争の目的は敵国の撃破であるから、その防衛者が武器を手にしている限り、これを殺す権利がある。しかし、武器を捨てて降服するやいなや、敵または敵の道具であることをやめたのであり、ふたたび単なる人間にかえったのであるから、もはや生命をうばう権利は無い。ときには、国家の構成員を一人も殺さずに国家を殺すことができる。戦争は、その目的を達する為に必要でないいかなる権利をも与えるものではないのだ。」(『社会契約論』ルソー)

 たしかに、近代国家間の【外交としての戦争】はルソーの言うとおりである。しかし、これをこの長島一向一揆戦に適用はできない。
 信長が攻めたのは【民】であり、国家ではない.紀には滅ぶが民は滅ぶことは無い。彼らは血脈によって連綿と続いてゆくからだ。
 それ故、信長は彼らに恐怖し、【皆殺し】という行動に出たのである。
 さらに、越前一向一揆に対しても【皆殺し】は続けられる。

 社会と法が整備される過程で、アジールは否定され、廃止される。しかし、この虐殺は決して許されるものではない。

伊勢長島一向一揆虐殺~概略

 天正二年7月13日、信長父子は岐阜を出陣し、同日、尾張の津島に到着した。
 同15日、九鬼水軍が海上封鎖。織田軍は四方から攻撃を開始した。
一揆勢は、篠橋・大鳥居・屋長島・中江・長島に分散し、立て籠もったが、それぞれの砦は完全に包囲され孤立した。

 8月2日に大鳥居、続いて篠橋が陥落。
 9月に入り、一揆勢は三ヶ月に及ぶ籠城で兵糧が尽き、長島城は開城、降伏した。しかし、多くの小船に乗って島をあとにした途端に織田軍の一斉射撃を浴びた。そして、斬り捨てられた。それでも八百人ほどが油断していた信長の本陣に切り込みをかけ散々に斬り立てた揚句、石山本願寺まで辿りついたという。
 残る屋長島・中江両砦は四方から放火され、男女二万人が焼き殺されたのである。

当時の信長の手紙を列記してみる。

「七月二十三日 種々と一揆ども懇望つかまつり候へども、この刻、根切りにすべきことに候の間、その咎を免ぜず」(河尻秀隆への書簡)
「七月二十四日 河内一揆退治について在陣・・・・ことごとく存分をもつて申付け、長島一城にいよいよ詰陣候」(筒井順慶への書簡)
「七月二十九日 篠橋といふ所、また大鳥居、この両所、昨今いよいよとりまき候。両所ながら兵糧一円になきこと、たしかに相聞こえ候。五、三日までは、相延ぶべからず。・・・はや城中に男女の餓死、ことのほか多きよし」(明智光秀への書簡)
「八月五日 大鳥居といふ所、三日に落城候。首数のことは注するに及ばず。」(長岡藤孝への書簡)
「八月七日 河うち敵城ども・・・男女ことごとく撫で斬りに申付け候。身を投げて死に候ものも多く候よし申し候。願証寺、これも落居ほどあるまじく候。色々わびに音参し候。なかなか取り上げまじ。(河尻秀隆への書簡)
「八月十七日 篠橋落居以来、いよいよ押し詰め・・・大阪坊主迷惑せしむ。」(長岡藤孝への書簡)
プロフィール

Author:なおまゆ
娘二人の名をネームにしている激甘父です。散歩のように気紛れにぶらりぶらりと歴史を辿ります。そっけないブログですが、ご意見をいただけるととても嬉しいです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
お父さんの歴史散歩
お父さんの歴史散歩
ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking

検索フォーム
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。